創立90周年記念座談会

    <座談会出席者>    
    浅野 泰一 (前全関西学生スキー連盟会長 現顧問)  
  座長 松田 暉 (全関西学生スキー連盟会長)  
    高橋 光二 (全関西学生スキー連盟副会長)  
    新井 潤 (全関西学生スキー連盟理事長)  
平成27年(2015年)5月9日開催 (出席者の役職名は当時の役職)  

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座 長: 本日は週末のお忙しい中を 全関西学生スキー連盟の90周年記念座談会にお集まりいただき感謝いたします。
  この事業の一環として記念史を作りたいと考えていますが、その中に連盟創立から現在に至るまでの様々なことを掲載したいと思い、特に連盟の発展に50有余年携わってこられた浅野前会長(現顧問)をはじめ高橋副会長、新井理事長にお集まりいただいています。
  90周年と言う節目の年に連盟会長として、皆様と色々なことを語ることができることは、私にとってうれしいことです。私は連盟の会長になって日が浅いですが、70周年の座談会にも出られていた浅野顧問には、その後の20年間の連盟の動きなどについても語っていただきたいと考えます。
浅 野: 90年の連盟の歴史を振り返る時、70周年記念行事が連盟の行事として大きなものであったと考えています。当時は加盟大学数・学生数も多く連盟は隆盛を誇った時期であったと言えます。
  データによりますと、平成4年(1992年)には女子人数が飛躍的に伸びたことで、登録人数がピークを迎えたようです。その後は小子化に加えて大学において体育会系の廃り等によって、大学・学生数が漸減すると言う傾向となったことは記憶に新しいことです。さらに阪神大震災を経てスキー人口そのものが減っていったと言うトレンドもあります。
  ここに他のスポーツ界に比較しても長い歴史のあるスキー連盟が90周年を迎えると言う意識を持つ時、さらに前に向けての大きな推進力になるものと考えています。ひいては100 年さらにはその後に繋がっていくものと考えます。
  
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浅野顧問            松田会長

座 長: この20年を振り返りながら、改めて90周年を迎えた連盟の存在意義を発信することが大事だと考えます。大事業であった70周年記念行事を振り返るとともに、次の年代に如かなるメッセージを送るかと言うことです。まず新井理事長からお願いします。
   
<連盟発足時から70 周年記念事業まで>
新 井: 70 周年記念事業においては、私自身座談会を傍聴したことを覚えています。昭和10年代に甲子園球場で開催されたジャンプ大会に全関西の学生が参加したことなどはすごいことだと驚いたことを覚えています。つまりスキーの黎明期から既に学生スキー連盟が存在していたと言うこと自体が重要なのですね。
浅 野: 全関西学連の方が全日本学連よりも半年早く設立されたことに加えて、昭和13年(1938年)全日本スキー連盟主催(兼予選)の甲子園ジャンプ大会を開催し、翌昭和14年(1939年)東京後楽園で実施しましたが、全関西の方が常に先んじていたと言うのは歴史的事実です。また女子部創設や、女性理事の登用も全関西が早かったことも特筆すべきことであり、進取の精神に富んでいたと言うことでしょう。
座 長: 雪国から離れているこの関西地区において連盟を創設し維持していくためには大きなエネルギーが必要であったことは想像に余りあります。第二次世界大戦をはさんで中断を余儀なくされても大会運営を続けてこられた先輩諸氏のご努力には感服するところです。また阪大OBの水野祥太郎先生のアルペン回転技術に関する論文がありますが、現在でも通用するようなアカデミックなものであると言うことを現在の人達にも伝えておきたいと思います。
  つづいて高橋副会長、連盟運営の歴史で何かエピソードを紹介していただけますか?
高 橋: 38歳の時に連盟の役員として関与した際に、皆さんが手弁当で学生の為にやっておられることに感銘をうけたことを覚えていますし、役員の皆さんがスキーを愛しているのだと強く感じた次第です。このような全関西学連のマインドを現時点にとどまらずに、さらに次の世代の学生達にも伝えていきたいものです。
浅 野: 戦前の先輩諸氏の働きがすごかったと言うのは事実です。ちなみに初代会長の大石雄一郎氏は全関西学生スキー連盟と、テニス、さらにスケートと三つの学生連盟を立ち上げられたと聞いています。
  その後昭和14年(1939年)当時に、全日本学生スキー連盟と統合しようと言う話が出て論議されたのですが、採決の結果は統合はならなかったものの、その後に関西支部を作ろうと言うことで京大の木原先生が昭和16年(1941年)に関西支部長に就任されたと言う経緯があります。ちなみに木原先生は全日本スキー連盟の第4代会長となられています。
  当時は戦前と言うこともあり、樺太や韓国からスキー選手を関西に勧誘しようとする動きがありました。また昭和40年代前半には韓国の大学との交流戦をやろうと言う話が出たのですが、全日本学連からそのような動きを牽制されて結局実現はしなかったと言うことです。
座 長: やはり全関西には常に新しいことをやってみようと言う、進取の精神がありますね。
  開催地ですが、まずは神鍋で始まってその後野沢などに移ったと言う歴史をもう一度思い起こしてみたいと思います。神鍋に行きますと道の駅に、当時の懐かしい写真等が貼ってあるのを見かけますが、当時のことについて浅野顧問はどの程度ご存知ですか?
  私の時代には既に野沢での大会でしたから。
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高橋副会長          新井理事長

浅 野: 神鍋は戦前の開催地でした。関西には主だったスキー場としては神鍋が有名で、後は滋賀県の朽木のマキノや京都の花背にもスキー場はありましたが、大会として競技するとなると神鍋しかないと言うことになったものと考えられます。
高 橋: 日本のスキーの父とも言えるレルヒ少佐が、日本海側を重点的に指導したと言うような話もあって神鍋や大山が早い時代から有名になったのかも知れませんね。
座 長: 神鍋ではジャンプ台も櫓を組んでいたのでしょうか?
新 井: 70 周年記念史の写真にも残っていますが、確かにそのようだったようですね。
座 長: 連盟への参加大学の傾向ですが、当初は龍谷大学・大阪医科大・大谷大学・関西大学・同志社大学・甲南高校・関西学院高等部などの7~8校が中心となっていたようですね。  龍谷大学は第1回大会の優勝をはじめとして活躍され、関西大学も戦前の優勝もさることながら戦後も第18回から第27回までの10連勝と合計17度の優勝を数える強豪でした。
浅 野: 第1回から第16回までの戦前の大会では、旧制高校が入っていましたので、大学としては龍谷大学・大谷大学・立命館大学・関西大学・大阪医科大学などが優勝を争ったものです。
  第1回の優勝の龍谷大学や第6回優勝の大谷大学などは浄土真宗関連の子弟の入学などで活躍して、第3回・5回優勝の高岡高商(現富山大学)は龍谷大学や大谷大学などへ進学した日本海側寺院の子弟の口コミなどで強豪選手を集めて活躍していた可能性があると私は考えています。
事務局: 当時は競技スキー部と言うよりはむしろ山岳スキー部としてクラブ活動していたチームが多かったようです。
座 長: 関西大学の連勝には浅野顧問の御父君が活躍されたようですが、そのあたりについて何か聞いておられますか?
浅 野: 第8回大会の優勝は父が主将として果たしましたが、戦後の10連勝の頃はOBとして動いていたようで、今の強豪校のようにスキー強豪地域から有望選手を選抜していたようです。

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